林喜重大尉の兵学校時代の写真を入手!
林喜重大尉は海軍兵学校(海兵)の第69期卒業生でした。一般にこの期を海兵69期と呼びます。昭和16年の3月に士官候補生として卒業した342名の海軍の将来を担う若者たち。そのうち約7割が太平洋戦争で戦死しました。
今回、ある方から海兵69期の卒業アルバムを見せていただきましたので、林さんにまつわる同期の人物たちを簡単に紹介したいと思います。
このアルバムを所持しておられたのは、阿久根町(当時)出身の海軍士官、村山芳文の15歳年下の弟さん。芳文が生前書き残した手記によると、林喜重とは兵学校の3号生徒と2号生徒だった2年間、同じ分隊のメンバーでした。この分隊の同期生は9名で、そのためかアルバムには仲良く隣同士で写っています。(注)新入生を4号生徒、最上級生を1号生徒と称した。なお同期の就学期間は3年間に短縮された。

前列左端が林喜重、その隣が村山芳文。初期練習機の前で同期の分隊メンバーたちと。芳文の手記によると、このうち終戦時に生存していたのは3名のみ。
体格のいい芳文の隣では、林喜重のきゃしゃな体がひ弱そうにに見えてきます。弟さんが芳文から聞いた話では「林さんは小柄で器械体操が上手だった」そうです。

後列右端が林喜重、その隣が村山芳文。昭和15年7月7日との裏書がある。
今日に伝わる海兵69期生の素顔
まずはハンモックナンバー順に紹介します。全国から集まった秀才集団ですが、海軍では成績順に卒業席次が決まっていて、卒業後も儀式などで着席するときは成績順が基本でした。この席次はハンモックナンバーと呼ばれ、一生ついてまわりました。
ここで紹介する海兵69期生のハンモックナンバーと略歴(敬称略)
貞閑敏明 6 生存 爆撃機(恩賜の短剣組、出水空飛行隊長)
岩下邦雄 38 生存 戦闘機(横須賀航空隊紫電隊隊長)
大庭良夫 80 戦没 戦闘機(S18ラバウルで戦死、二階級特進)
林 喜重 90 戦没 戦闘機(343空戦闘407飛行隊長)
戸塚浩二 97 生存 爆撃機(521空~台南空飛行隊長)
村山芳文 125 生存 潜水艦(波103号艦長)
(総 員 342名)
気になる林喜重のハンモックナンバーは何番かというと、90番でした。兵学校時代はそれほど目立たなかったようですが342名中の90番なので、小さい体でよく頑張ったといえるかもしれません。
林大尉がラバウルで同時期に最前線で生死を共にした快男児―大庭良夫中尉(死後少佐、二階級特進)や、昭和19年の暮れに紫電改の部隊編成のために出水基地にやってきた際に、おそらく突然出くわした名物飛行隊長-貞閑(さだか)敏明大尉も同期です。佐賀の農家の次男坊で、出水航空隊の飛行隊長として破れズボンで熱血指導を行った貞閑敏明はなんと6番。卒業時は恩賜の短剣を賜ったほどのエリート中のエリートでした。貞閑は後年、同期では林喜重が戦闘機乗りとして名を馳せたと回想しています。
出水で紫電改部隊を編成し、紫電および紫電改の操縦訓練を行っていた林大尉は昭和20年の1月24日、出水の飛行場からダグラス輸送機3機を連ねて松山の343空本拠地に向かいました。貞閑大尉は滑走路前の床几に腰かけて腕組みしながら新鋭戦闘機部隊の活躍を祈るように見送ったのではないかと想像します。それが林喜重との最後となりました。

超エリートで豪傑肌の貞閑敏明(前列左から2番目)は、昭和19年3月以来約出水空で13期、14期予備学生や予科練甲飛13期生2000人以上を指導した。情誼に厚い名物飛行隊長だった。
長身でハンサムだった大庭良夫は新橋芸者衆がぞろぞろ後をついてきたという逸話が残るほど持てたそうですが、成績も80番と文句なし。ラバウルに出征すると、林中尉がすでに分隊長として活躍していました。大庭中尉はこの中では最も早く戦死します。南方の激烈な航空戦闘を連日指揮し、昭和18年12月23日、同日の「201飛行隊行動調書」によると、ラバウル方面の基地を爆撃に来たB24リベレータなど26機および直掩戦闘機F6Fなど40機余の来襲に対し、ゼロ戦30機で迎撃戦を行いましたが、未帰還2機、そのうちの1機が大庭中尉機でした。大庭中尉は、激戦地での目覚ましい貢献が認められ、特攻ではないにもかかわらず二階級特進しています。ちなみに大庭良夫と貞閑敏明は旧制佐賀中の同級生でした。

後列中央が大庭良夫。長身ながら戦闘機隊を率いるも、ラバウルで戦死
岩下邦雄は雷電や紫電部隊の隊長として激戦を潜り抜け、後年零戦の会の会長を務めるなど、海軍の戦闘機や空戦に詳しい著名人で、成績も非常に優秀でした。
今回の卒業アルバムを大切に保存していたのは旧制出水中出身の村山芳文。筆者にとっては大先輩にあたります。波号103潜水艦艦長で終戦。気になるハンモックナンバーは125番でした。342名中の席次なので、決して悪い成績ではないと思います。芳文は昭和19年の1月に阿久根で結婚式をあげました。その際、貞閑敏明と戸塚浩二は遠路友人の挙式に駆けつけ、「貴様、貴様」とどすの利いた声で兄と呼びあっていたと、当時8歳だった芳文の弟さんは記憶していました(弟さん談)。2人ともその時点では出水基地とは接点はなかったと思われるので、休暇を取って汽車でやってきたのか、要務飛行と称して出水基地まで飛んできたのか、まだ余裕のある時代だったのかもしれませんね。

後列右端が村山芳文。林喜重の戦死の地が自身の生地、阿久根近海と知ったのは平成4年のこと。病と闘いながら戦死の経緯を調べて手記を残した。その数年後、友のもとへ旅立った。
貞閑の回想記には「同期350名(正しくは342名)のクラスの内、『飛行機乗り』を選択したのが140名。その中で、終戦時に生き残っていたのが15名。1割しか生き残れなかった」とあります。特攻は学徒出陣組が数の上では多かったのですが、戦死率でいえば、68期から71期までの兵学校卒業者の死亡率はほぼ7割に及びます。特に69期の飛行機乗りは9割が戦死したことになります。その中で名を残すことのできた林喜重はある意味、恵まれていたのかもしれません。(文中敬称略)
典拠:『海兵第69期卒業写真集』、『おおいたの経済と経営』(No.99)