昭和20年4月21日、出水上空の戦闘記録が残っていました!

 4月21日朝、南九州一帯は快晴でした。平和であれば、機上から見た出水の初夏の景色はことのほか美しくみえたことでしょう。

 しかし、3日ぶりにB-29 の大編隊が九州に向けて飛行中との情報が入ると、出水基地に駐留していた梅本大尉以下のゼロ戦部隊14機は一斉に上空哨戒ならびに邀撃のために発進。高度7000mで敵機来襲を待ち構えていました。

 すると南東方向から8機のB-29 が高度4500mで出水をめざしているのが確認できました。優勢な占位を生かして各小隊4機編隊で前方上方から一斉に射撃を加えました。

 第2小隊一番機の水谷中尉機が放った20㍉機銃が先頭を行くB-29 の前方銃座に命中、撃破一機を記録しましたが、「超・空の要塞」といわれたB-29 の反撃が激しかったためか一撃後は全機、鹿児島上空の迎撃に向かいました。ただし、一番小隊4番機の古河敬生中尉機は離陸時に両脚の収納ができなかったため、戦線を離脱し大村基地に退避することを命じられていましたが、消息不明でそのまま未帰還となりました。

当日の出水基地駐留戦闘機部隊の行動調書の一部。この日の被害は「未帰還f0式×1機」とある。
古河中尉は群馬出身、桐生高専卒の第13期飛行科予備学生。理系ながら志願したものと推測される。

  終戦後に、出水沖合の桂島付近で遺体が発見されました。もしかしたら大村には向かわず、極めて不利な態勢のまま単機でB-29 と交戦したのかもしれません。現在、ご遺族の手により桂島に慰霊碑が建てられています。

蕨島からみた桂島(どちらも出水市)。この海域に古河中尉機は墜落。遺体は昭和26年に引き揚げられた。
この美しい海の底には複数の機体が眠っている可能性がある。

 しかしこの日の被害は、ゼロ戦1機のみではありませんでした。

 出水基地ではB-29、8機が我が物顔で空爆を行い、悠然と出水上空を後にしようとしていました。その日の爆撃は一見被害は少ないよう見えましたが、爆発時間をずらした時限爆弾が多く、滑走路の使用を数日間阻害することが目的でした。

 さて、ゼロ戦部隊が鹿児島方面に向かったあと、猛然とB-29 に攻撃を加える戦闘機が出水上空にやってきました。国分方面から11機のB-29 を追尾してきたのでした。出水爆撃中の8機と合流したのか、敵機は一気に19機に増え、いかに勇猛な戦闘機乗りでも1機で戦えるわけはありません。そこへまた同じ形をした戦闘機が1機、猛烈な勢いで突っ込んできました。飛行機に詳しい出水の人たちにはグラマン紫電に見えたことでしょう。

 その正体は紫電改でした。ゼロ戦部隊は出水上空の防衛をあきらめて鹿児島へ移動したというのに、2機の紫電改は無謀なまでに勇敢でした。なぜそうした行動ができたのかといえば、紫電改日本海軍が大きな期待を寄せた当時最強の機体だったからです。

 紫電改B-29 の交戦の記録は次回に紹介します。(つづく)