出水上空の紫電改、林大尉自爆の真相に迫る

  今回引用した4月21日の『戦闘詳報』によると、出水上空は朝から晴れとある。矢筈山系は陽光を浴びて新緑に輝き、コバルトブルーの不知火海は息をのむほどに美しい。林大尉にとっては、つい3か月前まで天翔ける鶴に遠慮しながら紫電の訓練を行った懐かしい空域でもあった。

 しかし、この日の林の視線は19機編隊の最後尾を行くB-29にロックオンされたまま微動もしない。今日は必ずB-29を仕留めるつもりだった。「明日、一機も撃墜できなければ俺は帰ってこない!」昨夜、菅野に言い放った捨て台詞が脳裏によみがえる

  菅野は林の一期後輩ながらB-29撃墜の赫々たる成果を上げている。しかし林はラバウルやフィリピン方面で数多くの敵機を撃墜してきたものの「超・空の要塞」といわれるB-29は、まだ一機も仕留めていなかった。

  昨夜は国分基地の一室でB-29の撃墜法をめぐって菅野と激しい口論となった。菅野が主張する前方上方から背面で急降下射撃をくわえて、敵機の前部風防すれすれを下方にすり抜ける攻撃法は、林には無謀で危険すぎると思われた。菅野にすれば、敵の銃撃の死角をつく一撃必殺の自慢の攻撃法だった。確かに理にかなってはいたが、相当の技量がないと無駄死にしかねない危うい戦法でもあった。

 林は菅野と喧嘩別れしたあと、自室にこもって同僚の市村吾郎大尉に便箋数枚のメモを書き残している。市村が戦後語ったところによると、それは死を覚悟した書置きのようなものだったという。(出典:『源田の剣』)

 ところであらかじめ言っておくと、林大尉の出水上空での戦闘行動の詳細はあまりわかっていない。『戦闘詳報』は帰還した戦闘従事者による報告および客観的な情報を基に作成されており、当事者2名が戦死している以上、当然ながらわかることは少ない。

 具体的にいうと、午前7時14分にB-29の8機が出水基地を爆撃した記録は残るが、同7時40分頃に紫電改2機が出水近海に自爆するまでの20数分間の記録は日米ともにほとんど残っていない。確実なのは、清水飛曹長が7時10分ごろに天草付近の上空で301本隊と離れ、その後出水上空で「407隊長機が19機のB-29 編隊を追攻していることを発見し、これと協同して1機を撃墜」と無線で連絡してきたことくらいである。そして2人の最期についても「0740頃、被弾ノ為自爆」以外の記述はない。

 なお、「1機撃墜」と連絡してきたのが林大尉なのか清水飛曹長なのか、あるいはその両方なのかも判然としない。また林が脇本海域に自爆した時点で生存していたかどうかも不明である。増槽が吊るされたままだったために着水時に激突死したといわれてきたが、これも現場検証によって確認されたわけでもないようだ。そもそも清水機が、出水近海のどこに墜落したかも正確な記録はない。前回紹介した参照文献はそれぞれに大変貴重なものだが、記載されている個々の証言の精度は必ずしも高いとはいえないのである。

 こうした前提で、以下、空白部分を推測や想像で補いながら、林大尉の最期を再現してみよう。

 

 林大尉は、出水上空でようやく敵編隊に追い付くと、意を決して増槽を切り離し、操縦桿を思い切り前に倒した。集団から少し離れた一機に狙いを定め、後方上空から猛然と襲い掛かった。と同時に敵編隊の上部銃座が一斉に火を噴く。紫電改1機対B-29・19機の空中戦が始まった。林は加速して標的に近づく。紫電改が誇る20ミリ機銃4挺の威力は絶大だった。が、いかんせん敵は「超・空の要塞」である。機体の防御力、防災設備など当時の最高水準の仕様となっている。そのためできるだけ接近してから射撃を行う必要があった。敵の弾幕を巧みに避けながら突き進み、執拗に食い下がる。尾翼の方向舵に狙いを定めて断続的に射撃を繰り返す。すると、突然B-29 の後部銃座からの射撃が途絶え、静かになった。みると銃座上方の風防が鮮血に染まっている。これで真後ろにつけてさえいれば射撃を食らうことはないだろう。

 そこへ、列機とはぐれて単独飛行中だった同じ紫電改部隊の301飛行隊の清水俊信飛曹長機(当日の編成では第1小隊第1区隊3番機)天草方面から現れた。前方で何やら空中戦が繰り広げられている。よくみると友軍機は1機のみ、しかも紫電改。胴には白い二重斜線がくっきりと見える。407飛行隊長の林大尉機だ。

 清水飛曹長はほぼ反射的にB-29の大編隊めがけてダイブした。

「こちら菅野3番。林大尉殿、増槽が落ちていません。直ちに退避してください!」

 清水機からは林隊長機が増槽を抱いたまま交戦しているのがはっきりと見えた。しかし、無線電話が通じないのか、林からは何の返事もない。

 清水は林に協同するために上空前方から標的機の左側の主翼付け根を狙った。この日、初めての交戦となった清水機には銃弾不足の心配はなかった。4挺の20ミリ弾を思い切り撃ち込んで下方にすり抜けると、機体が震えるほどに急速反転、こんどは上昇しながらすかさず脇腹の燃料タンクに銃弾を注いだ。確かに命中しているが、なかなか反応がない。

 とその時、標的のB-29 の尾翼付近が一瞬発火して、方向舵の一部が吹き飛んだ。黒煙が一気に尾翼を包んだ。巨大な機体が徐々に左傾し、明らかに編隊から遅れ始めた。「林一番、一機撃墜」。この日初めて林大尉は無線電話で司令部に報告を行った。清水もほぼ同時に司令部に協同撃墜を報告している。林の執拗な追攻と清水の協同攻撃が成果を上げた瞬間だ。

 遂に林はB-29 を仕留めた。いや、そのはずだった。しかしやはりB-29のダメージコントロール能力は、日本軍の常識からすると尋常ではなかった。「撃墜」したはずが、一向に墜ちないのだ。

 「撃破」では不十分だ。しかし弾薬も燃料ももうすぐ底をつく。これ以上の深追いは無謀以外の何物でもない。どうすべきか。

 林の意志は固かった。今日は帰るつもりはなかった。増槽が落ちなかったことも知っていた。それでも攻撃を続けたのは、この地で死ぬつもりだったからだ。ふと前方上空をみると、清水機が無理な旋回運動のせいか被弾のためか、機体は音もなくバラバラと崩れ、不知火海の西のはずれに落ちていった。

「また一人、俺は優秀な戦闘機乗りを殺してしまった・・・」

 林は、瀕死のB-29 に体当たりすることにした。確実にとどめを刺すのだ。尾部に狙いを定め、スロットルを全開した瞬間、B-29 の尾部銃座の3挺の12.7ミリ機銃が火を吹いた。

「なぜだ!射手は確かに死んだはずだ」

 正面からの正確な射撃をうけて、紫電改のエンジンはひとたまりもなかった。風防の一部も砕け散り、真後ろの尾翼の先端も一緒に吹き飛んだ。幸運にも林に弾丸は当たらなかったが、プロペラの回転が止まった。

 なぜB-29の後部銃座は急に復活したのか。

 B-29には当時世界最高の先端技術が満載されていた。今日同様の気密室が導入されていたほか、機銃はすべてコンピュータ制御されていた。後部銃座の射手は無力化していたが、それを知った射撃長が機体中央部から遠隔操作で後部銃座の射撃を行ったのである。日本軍はそのことをまだ知らなかった。絶望的なまでに技術格差が生じていたのだった。

「今日の攻撃はこれまでだ。帰還は無理だが、再起を図ろう。陸地での不時着はまずい。何とか機体を海岸まで運ぼう。そうだ。脇本の海岸線がいい。あそこなら遠浅だから何とか脱出できる」

 ほぼ2カ月間、みっちり飛行訓練を行った出水上空である。海岸線の地形もしっかり頭に残っていた。敵編隊が遠ざかるのを悔しそうに見上げながら滑空を続けた。海面に近づいたら一気にスピードを落としてふんわりと不時着水するつもりだったが、猛烈な勢いのまま増槽が海面を叩いた。急制動がかかり、機首が海面に激突した。増槽をつけたままの不時着訓練など誰もしたことがない。この時はイチかバチかだった。不運としかいいようがない。

 脇本海岸の南端を流れる折口川の河口近く、沖合50メートル地点で機はとまった。後に地元の人々が救助にかけつけたが、すでに絶命していた。海軍関係者の到着を待って簡単な検死をへて現地で荼毘に付された。頭部に激しい衝撃が加わったためと思われた。頭部以外は無傷だった。 (おわり)

 

 長くなったが、これが出水と林喜重海軍大尉との関係のすべてといって過言ではない。戦死した地は脇本の海岸であり、同地は現在では阿久根市の一部となっている。阿久根の人々は、林大尉(後に少佐)を同地を守ってくれた恩人としてその霊を大切に弔ってきた。今でも立派な慰霊碑が海岸の近くに残っている。

 ありがたい話ではあるが、出水の人々は果たして出水上空で戦った林大尉や清水飛曹長のことをどれだけ知っているのだろうか。

 来年は戦争終結80周年の節目を迎える。できるだけ多くの出水の人々に、80年前の4月21日に出水の空の上でこうした悲劇が繰り広げられていたこと知っていただきたいと思っている。そのため、この記事を悪戦苦闘しながら書いてきた。

 

《昭和20年4月21日、出水上空でB-29 編隊と交戦して戦死した戦闘機搭乗員》

 ゼロ戦搭乗員 古河敬生海軍予備中尉(谷田部海軍航空隊  出水派遣部隊)

 紫電改搭乗員 林喜重海軍大尉(343空407飛行隊長)

 紫電改搭乗員 清水俊信一飛曹(343空301飛行隊員)

 以上3名 出水近海に自爆。                  合掌

米軍の当日のB-29による九州航空基地攻撃計画とその結果の記録。合計217機が主目標9基地(P印)ほかに爆撃を行った。出水基地は313WGの13機が2214zと2349z(z:世界標準時)の2回爆撃(RELEASE)した。出水基地の記録には0714に8機、0850に5機投弾とあり、日米の記録はほぼ一致する。計画の周到さ、記録の緻密さにも彼我の差を痛感させられる。