昭和20年6月27日に海軍功績調査部長宛てに送付された「軍極秘」の印を押されている資料を国立公文書館のアーカイブから発見しました。表紙のタイトルは「第三四三海軍航空隊戦闘詳報第二号 昭和二十年四月二十一日南九州「B-29 」邀撃戦」です。
以下、この資料をもとに同日の出水上空の戦闘を振り返ってみましょう。
なお、他の資料などから得た情報を加味して読みやすいように脚色していますが、できるだけ原資料に忠実な再現につとめました。
午前7時15分、出水基地の爆撃を終えた8機のB-29 がテニアンに向けて変針しようかという頃、別の11機編隊が南東方向から轟音とともに出水上空に現れた。その最後尾には紫電改が1機くらいついている。撃墜のチャンスを虎視眈々と狙っていたに違いない。
ほぼ同時刻、国分基地にあった紫電改部隊(通称343空)の司令部に「こちら菅野3番、B-29、19機と交戦中の407隊長機を発見。ただちにこれに協同する」と、雑音交じりの甲高い声が飛び込んできた。「菅野3番」とは、3つあった紫電改部隊の中でも最強と言われた戦闘301飛行隊(菅野直隊長)の3番機、清水俊信一飛曹だった。天草上空で本隊とはぐれたらしく、単機哨戒しながら国分方向に帰還途中、出水上空で407隊長機が多数のB-29 に挑みかかっているのを発見したのである。
しかしいかに紫電改とはいえ、たった2機での交戦は自殺行為に近い。司令部は直ちに帰投を命じたが返事はない。情報が錯綜する中、今度は「こちら林一番、B-29一機撃墜!」との声が聞こえてきた。「林のやつ、ついにやったか!」一瞬、司令部にいた源田実司令や志賀淑雄飛行長の表情が緩んだ。しかしその後はこの2機との交信は途絶え、ついに2機ともに未帰還となってしまった。
「やはり林は死ぬつもりだったのか…」
源田司令たち幹部の思いはみな同じだった。
林とは3つの飛行隊の一つ、戦闘407飛行隊長の林喜重大尉のことである。紫電改の猛者連中のあいだでは部下思いの人格者として有名だった。その林大尉は、5日前の喜界島上空の戦闘で部下6人をことごとく失っていた。その中には死地を共に潜り抜けてきた相棒のような部下もいれば林の身代わりとなって戦死した者もいた。生真面目な林には応えた。
前夜も1期後輩の菅野大尉と激しい口論となり、「明日1機も撃墜できなければ俺は帰ってこない!」と声を荒げていた。
このため、出撃編成案の作成担当だった本田稔飛曹長は林大尉を名簿から除いたという。しかし林は自分が行くと言い張ってきかず、本田の位置(第三小隊長)に自分の名を入れ替えて出撃していった。(典拠:『源田の剣』)
午前7時、福山上空で空戦後、林はおそらく意識的に編隊を離脱して、単機B-29を追尾したものと思われる。追いついた先が、運命の出水上空だった。林には、ここが自分の死に場所になるだろうとの自覚はあったに違いない。
実は、林大尉は出水の地形をよく知っている。昭和19年の12月から翌20年1月下旬までの2か月弱、戦闘407飛行隊の隊員たちとともに出水基地において、新たに制式採用された紫電改の基礎訓練を行った。まだ紫電改の供給が間に合わず、先行機である紫電によって操縦訓練を行っていた。その頃の出水基地は紫電の拠点基地に指定されていたので、紫電改の搭乗員めざしてゼロ戦搭乗員などが大勢出水にやってきたのだった。その年の元旦には、407飛行隊の紫電10機が近くの神社を低空から初詣でしたという。まだ空襲もなかった頃で、出水の街中は戦場帰りの猛者たちでさぞや華やいだことだろう。(つづく)
運用開始 : 昭和20年1月 昭和15年7月(二一型)
生産機数 : 415機 10430機(全型式機の合計)
全 長 : 9.376m 11m
全 幅 : 11.99m 9.121m
最高速度 : 610Km(高度6000m) 565Km(高度6000m)
全備重量 : 3800Kg 2733Kg
発 動 機 : 誉二一型(離昇1990馬力) 栄二一型(離昇1130馬力)
武 装 : 20㎜機銃4挺(翼内) 20㎜機銃2挺(翼内)、7.7㎜機銃2挺(機首)
以上
本稿で参照した主な書籍:
『三四三空隊誌』(発行者「あいなんからの祈り」実行委員会)
『海軍航空隊始末記』源田實
『源田の剣 改訂増補版』高木晃治・ヘンリー境田
『新・蒼空の器』豊田穰
『最後の撃墜王』碇義朗