4月21日は紫電改搭乗員の林喜重大尉、ゼロ戦搭乗員の古河敬生中尉の命日です。
終戦の日を迎え、改めてお二人の霊前にお花をささげ、お線香をあげてきました。
まずは、紫電改部隊の隊長だった林喜重大尉の慰霊。当日の戦闘詳報に「午前7時40分、林大尉が自爆」という記述があるので、その時間に合わせて有志数名で折口の浜にある慰霊碑の前で黙祷を行いました。なお碑には林少佐とあります。戦死により一階級特進されたためと思われます。
捧げた花の色は紫を基調としました。
NHKの記者に取材していただいたので、大変ありがたいことに、7月に続いてこの日も夕方のローカルニュースで特集の一部として2分弱、その様子が放送されました。
そのあと、5人の有志はそれぞれ車にて蕨島に移動。現地の漁師の方に沖合に浮かぶ桂島まで小舟で運んでいただきました。少し不安でしたが、激しく波しぶきを上げながらアッという間に到着しました。その間、神村学園と中京大中京高校の高校野球がありましたが、桂島に着く頃はまったく忘れていました。
桂島には林大尉と同日、戦死されたゼロ戦搭乗員の古河敬生中尉の慰霊碑(お墓)があります。メンバーのほとんどが初めて桂島に上陸するというので、皆緊張気味。そのうえ古河中尉がこの沖に戦死してしばらくしてから機体とともに遺体が引き揚げられ、現地の皆さんで埋葬されたそうですが、その後昭和50年代に遺族が来て現在のお墓を造られたというお話は実に衝撃的であり、その現場に今、立っているというだけで、歴史の一コマに参画しているような興奮を覚えます。
桂島は、桂島本島と細長い前島、その中間にあるこじんまりとした小島の3島からなっており、古河中尉のお墓は小島の頂上付近にありました。現在はこの3島は頑丈な堤防でつながっていて、船を係留したところから堤防の上を歩いて小島に行きます。
硬い岩盤の急斜面を数歩で駆け上がると、目の前に大理石の立派なお墓がありました。墓の周辺はきれいに掃除され、墓前には花が飾ってありました。現地の皆さんの暖かい気持ちが伝わてきます。
水を掛けたり、花を追加したり、最後ににお線香をあげてみんなで黙とうを捧げました。夢のような可愛らしい小島でした。 お墓の裏側には、建立されたご遺族2人の名前が刻まれていました。古河恵美、敬志と読めました。資料によると、恵美さんはなくなった古河中尉の奥様のようです。敬志さんはおそらく古河中尉が「お前が子供を安産する迄はそう簡単には死なないつもりだ」と最後の手紙を書いたとき、恵美さんのおなかにいた「子供」ではないかと思います。墓碑によると建立の日付は昭和52年4月21日となっています。亡くなって32年の月日が流れていました。おそらく恵美さんは50代半ば、敬志さんは32歳でしょう。一人息子を抱えて一人で生きてこられたのでしょうか。そして、恵美さんも敬志さんもそれっきり桂島を訪ねることはなかったそうです。
なお、本ブログでは古河中尉と紹介してきましたが、墓標には古河大尉とありました。林さんと同じように戦死により一階級特進されたのでしょう。
そして、不思議なことに、古河中尉の出身や恵美さんの居住地などはまったくわかっていません。古河中尉の奥さんへの手紙は「妻への最期の手紙」というタイトルで何度も出版されてきたようですが、プロフィールの欄には、群馬県出身、滋賀県出身、佐賀県出身とあり、まちまちです。地元の方がたでも古河財閥のご子息、いや新潟県出身のはずだ、などと見解は違います。
もし心当たりのある方は、本ブログの一番下のコメント欄にどんなことでも結構ですのでご記入いただきますようお願いします。公表を希望されない場合は、内密にしますのでその旨お知らせください。
さて、8時45分から約2時間、異次元の空間をさまよった気分がしました。後ろ髪を引かれる思いで桂島を後にしました。蕨島に着くと、何と神村学園が中京高校に勝っていました。 (おわり)